平安時代(794-1186)は、別名を宮廷色彩時代とも呼ばれ、貴族社会の中で華やかなる色彩の文化が花開いた一時期であった。『源氏物語』や『枕草子』などの王朝文学に接する時、そこに繰り広げられる華麗な色彩表現に、私達は改めてこの時代の人々の、美に対する洗練された感性に思いを新たにするのである。

約400年に亘る平安時代の前半の200年くらいまでは、色名は染色材料の名がそのままつけられていた。色が自然の美しい花や鳥の姿をイメージするものではなく、何によって染められたかが問題なのであって、色彩材料に重点が置かれた時代だったのである。

10世紀を過ぎる頃より、次第に貴族文化が台頭し『落窪物語』、『宇津保物語』、『狭衣物語』などの王朝文学が世に出るに従って、色彩も一段と華やかさを増して描かれるのである。

紫苑色(しおんいろ)、薄紅梅(うすきこうばい)、虹色(にじいろ)、花浅葱(はなあさぎ)などのように、平安中期以後に出来た色名が、特に美しい響きをもっているのも、王朝の色彩を彩る重要な要素と
なっていることは否めない。

源氏物語に「紫苑色の、折にあひたる、うす物の裳、あざやかに引きゆひたる腰つき、たをやかに、なまめきたり。」
また「おほきやかなる童の、濃き粕(あこめ)、紫苑の織物かさねて、赤朽葉の羅(うすぎぬ)のかざみ、いたう馴れて」などの描写が見られる。

さて、《襲ね》についてだが、平安時代の頃は、地球は寒冷期を迎え非常に寒かったらしい。
加えてこの時代には厚手の衣料がなかったため、何枚も重ねて着たのである。
季節によって変化はあるが、多い時は15乃至16枚も重ねて着たのである。
これが、後に襲ねの色目と呼ばれるものへと発展するのである。

着物を重ねることによって、袖口や襟に段階的に表れる袿(うちぎ)の色を、一定のきまりによって配色し、これに春夏秋冬の四季にふさわしい花の名をつけたのが《襲の色目》と称するものなのである。
このように、装束の美を色彩の階調によって表現し、配色に一定の決まりを設けて一種の服制を作ったのである。