最後の有恒会報
河 原 碧 子
日本画家 河原デザインスクール
大阪市立大生活科学部住居学科卒
元生活科学部同窓会会長
日本画家 河原デザインスクール
大阪市立大生活科学部住居学科卒
元生活科学部同窓会会長
政治、経済が理念を失くしてからの世界は「新しい価値観」を探して彷裡った結果人々は何かとんでもない方向に流されている様に思えてなりません。戸迷う人間の一人として自分の生き方を考える時、心の中にまるで「神の指図」の様に体の中の「遺伝子のささやき」が聞こえて来る様な気がします。現実から目をそらし自分の世界に浸っていると、私のDNAは何故か遠い万葉の時代、見わたす限りの草野をさまよい歌をよんでいる女人たちの姿が浮かんで来ます。そんな風景を懐かしいような気持ちになってしまうのは、大らかでたなびく様な生き方に憧れているからだと思います。
これから晩年に向かって「生きる張り合い」を考える時、自分の心の中に自分なりの雰囲気をつくり環境をととのえなければと思っています。一つの方法として叶えられなかった「夢」も心の中にとり入れて「寝ている時見る夢」だけではなく「夢を抱く」「夢を描く」という事で少女の時代の自分にかえって心を通わせてみるだけで気持ちが若がえり楽しくなります。うずらごろも江戸時代の随筆「鶉衣」の「横井也有」という俳人も「心をただよわせる夢」が人間を満足させ、その人生は倍になると提案しています。
「夢の中で蝶々になって遊んだ古人」のことや「夜の衣を裏がえしにして恋人と夢の中で会えることを願った美女のこと」が書かれていて、こんなに色々と楽しめる夢をどうして「はかない」と表現するのだろうと言っています。又、也有の「物忘翁ノ伝」の中に、いくら本を読んでも忘れてしまう翁のことが出て来ます。読んだ内容を次から次へと忘れてしまうことは情けないことではなく、忘れるからこそ同じ本でも常に新鮮に読めるといっています。二,三冊の本があるだけでも心の楽しみは尽きることがありません。
今の時代、自由なのに何故か私たちが感じる息苦しさの原因はどうやら江戸時代の人達が体験した様な「豊かな心の遊びの精神」が足りないからだと思います。お互いの会話や行動の中で共に生きていくのに特に大切なのは「エスプリ」と云われる生き生きとした知性ある精神です。それは「吐く息」の如く生命を維持するのに必要な軽やかな運動のことです。
「生きる張り合い」としての目標は出来るだけ低目においておくと達成された時の喜びは、大きなものになります。それに、この「張り合い」を支えているのは「自分以外の大きな力」であることを謙虚に受け止めることで、自分も何とか人の役に立とうという自覚が生まれてきてそれが生き甲斐.につながる様に思います。
現代に生きる私達の世界では情報化が果てしなく、人間の頭や神経は療り減らされる一方です。本来大切にして来たはずの「五感」の働きは薄れ「五感」が働くどころか、「第六感」で物事を予測するということは及びもつかない状態になっています。父母の愛によって折角生まれて来た人間として出来る事なら「この世に存在したという証」に何か残せればいいと思いました。平凡に暮らすとしても心を込めて「ありのままに」毎日を積み重ねたらどんな結果になるのだろうかという興味もありました。
数えで二十才で生まれたばかりの私を残して、この世を去った母の果たせなかった「育児」が私の天職として残されたのではと思えます。もう一つ画家志望であった母の夢が、「どうか画を描き続けて」と私に指図しているようにも思われます。この二つの母の想い「教育と美術」がずっと私を支配し続け、それは何か社会に役立ちたいと思う「当時の若い気持ち」にぴったりの仕事だったのでしょう。
その後「二十才からは余生」と考えて来た私の決定的な「生きる張り合い」となったようです。と申しますものの最初の生き甲斐は矢張り「生まれた子供」だったと思います。「お釈迦様の本」を一緒に読んでいる時に「人間は何故死ぬのでしょう」と幼いお釈迦様の言葉を読み上げる舌たらずの言葉にも考え深いものを感じさせられたりしました。中学の頃お葬式の車に出会うと誰に教えられたのか親指を必ず握りこぶしの中に隠している様子や「お母さんが死んだらお庭に埋めて鈴をつけた紐を手につけておくから、もし生き返ったら紐を引っ張ってね」という可愛さにますます「強く生きて守らなければ」の感を深めました。子供って本当にいじらしく可愛いものだと思うと同時に子供の生きる世代のために少しでも人間らしい話の通じあえる人を作ることが我が子を愛することにつながると思いました。人がその人らしく生きようとするためには、勿論自分の気力の持続にあります。現代の社会に生きる人たちがまるでいつまでも生き続けられるかの如く振る舞っている浅はかさが、自分達人間も地球もほろぽす風潮にまんまとのせられているのだと思います。「考える葦」の人間はいったい何処に行ってしまったのでしょう。
夜半「人でいる時「死」はやはり人間の終末であると思うと恐ろしくも苦しくも思います。人間はたとえ身体が衰えても心は成長することが可能と云われています。たとえ「老い」「病み」「死」にゆくとしても身近にいる人に何かを教えることも出来、本当の人間の尊さや威厳を感じられます。リルケの「人間は自分の内部にまるで果実が種子を秘めているように死を秘めていることを意識しなければならない。そこで初めて不思議な威厳と落ち着きと、静かな品性がにじみ出る」という言葉に人間の生き方の結論が示されていると思われます。
ところで明治三十三年(一九〇〇年)生まれの俳人永田耕衣さんは、神戸新聞に掲載された随筆に挿絵を描いたご縁で、その句集じこん「而今」の中で九十才まで生き延びるとろうらん「老懶」の二宇に親しんでいたくなると申されています。懶という字は「りっしんべん」に頼るという字を書くので「懶…心に頼る」ということでしょうか。
「老懶」というのは年をとると何をするにも億劫になり今迄の人生を懐かしく思い、だんだん「無欲」になり「本質的な自分の存在が貴重になる」とおっしゃっています。又、植物学者の牧野富太郎博士は同時代の博物学者南方熊楠翁が七十才半ばで亡くなられた時に「八十才にもならんうちに他界するとは口ほどにもないやつだ」と喝破されたらしいのですが、この言葉は一見「ライバル」として熊楠翁にムチ打っているようにも聞こえますが、私には「長生きしなければ君のやりたかったことは実現出来ないではないか」という残念無念さが感じられ、お互い好きな研究にいそしむ者同志の深い友情が感じとられるのです。
ちなみに中国では八十才のことを半寿といい自然に生きたら百六十才まで生きられるといいます。八十才ではまだ子供なんだと云われた牧野富太郎博士は九十四才まで植物だけを愛して見事に「老懶」を「自娯」自らを娯しむことに変えていかれました。
生き方の結論は「無理は必ず綻びる」の諺のようにごく自然な気持ちで「教えたり教えられたり」「尽くしたり尽くされたり」と「人の生きる張り合い」はそんなところにありそうです。欲張らずに毎日が「無事であることの幸せ」をかみしめて、ささやかながらも充実した楽しみを積み重ねてこれからも仲よく人生の道を歩んで行きたいと思います。
中々思い通りにならない世の中ながら「張り合いがない」と仰有ることはなく、これからも健康にお気をつけられてお互い励まし合いながら頑張られますよう心からお祈り致します。
これから晩年に向かって「生きる張り合い」を考える時、自分の心の中に自分なりの雰囲気をつくり環境をととのえなければと思っています。一つの方法として叶えられなかった「夢」も心の中にとり入れて「寝ている時見る夢」だけではなく「夢を抱く」「夢を描く」という事で少女の時代の自分にかえって心を通わせてみるだけで気持ちが若がえり楽しくなります。うずらごろも江戸時代の随筆「鶉衣」の「横井也有」という俳人も「心をただよわせる夢」が人間を満足させ、その人生は倍になると提案しています。
「夢の中で蝶々になって遊んだ古人」のことや「夜の衣を裏がえしにして恋人と夢の中で会えることを願った美女のこと」が書かれていて、こんなに色々と楽しめる夢をどうして「はかない」と表現するのだろうと言っています。又、也有の「物忘翁ノ伝」の中に、いくら本を読んでも忘れてしまう翁のことが出て来ます。読んだ内容を次から次へと忘れてしまうことは情けないことではなく、忘れるからこそ同じ本でも常に新鮮に読めるといっています。二,三冊の本があるだけでも心の楽しみは尽きることがありません。
今の時代、自由なのに何故か私たちが感じる息苦しさの原因はどうやら江戸時代の人達が体験した様な「豊かな心の遊びの精神」が足りないからだと思います。お互いの会話や行動の中で共に生きていくのに特に大切なのは「エスプリ」と云われる生き生きとした知性ある精神です。それは「吐く息」の如く生命を維持するのに必要な軽やかな運動のことです。
「生きる張り合い」としての目標は出来るだけ低目においておくと達成された時の喜びは、大きなものになります。それに、この「張り合い」を支えているのは「自分以外の大きな力」であることを謙虚に受け止めることで、自分も何とか人の役に立とうという自覚が生まれてきてそれが生き甲斐.につながる様に思います。
現代に生きる私達の世界では情報化が果てしなく、人間の頭や神経は療り減らされる一方です。本来大切にして来たはずの「五感」の働きは薄れ「五感」が働くどころか、「第六感」で物事を予測するということは及びもつかない状態になっています。父母の愛によって折角生まれて来た人間として出来る事なら「この世に存在したという証」に何か残せればいいと思いました。平凡に暮らすとしても心を込めて「ありのままに」毎日を積み重ねたらどんな結果になるのだろうかという興味もありました。
数えで二十才で生まれたばかりの私を残して、この世を去った母の果たせなかった「育児」が私の天職として残されたのではと思えます。もう一つ画家志望であった母の夢が、「どうか画を描き続けて」と私に指図しているようにも思われます。この二つの母の想い「教育と美術」がずっと私を支配し続け、それは何か社会に役立ちたいと思う「当時の若い気持ち」にぴったりの仕事だったのでしょう。
その後「二十才からは余生」と考えて来た私の決定的な「生きる張り合い」となったようです。と申しますものの最初の生き甲斐は矢張り「生まれた子供」だったと思います。「お釈迦様の本」を一緒に読んでいる時に「人間は何故死ぬのでしょう」と幼いお釈迦様の言葉を読み上げる舌たらずの言葉にも考え深いものを感じさせられたりしました。中学の頃お葬式の車に出会うと誰に教えられたのか親指を必ず握りこぶしの中に隠している様子や「お母さんが死んだらお庭に埋めて鈴をつけた紐を手につけておくから、もし生き返ったら紐を引っ張ってね」という可愛さにますます「強く生きて守らなければ」の感を深めました。子供って本当にいじらしく可愛いものだと思うと同時に子供の生きる世代のために少しでも人間らしい話の通じあえる人を作ることが我が子を愛することにつながると思いました。人がその人らしく生きようとするためには、勿論自分の気力の持続にあります。現代の社会に生きる人たちがまるでいつまでも生き続けられるかの如く振る舞っている浅はかさが、自分達人間も地球もほろぽす風潮にまんまとのせられているのだと思います。「考える葦」の人間はいったい何処に行ってしまったのでしょう。
夜半「人でいる時「死」はやはり人間の終末であると思うと恐ろしくも苦しくも思います。人間はたとえ身体が衰えても心は成長することが可能と云われています。たとえ「老い」「病み」「死」にゆくとしても身近にいる人に何かを教えることも出来、本当の人間の尊さや威厳を感じられます。リルケの「人間は自分の内部にまるで果実が種子を秘めているように死を秘めていることを意識しなければならない。そこで初めて不思議な威厳と落ち着きと、静かな品性がにじみ出る」という言葉に人間の生き方の結論が示されていると思われます。
ところで明治三十三年(一九〇〇年)生まれの俳人永田耕衣さんは、神戸新聞に掲載された随筆に挿絵を描いたご縁で、その句集じこん「而今」の中で九十才まで生き延びるとろうらん「老懶」の二宇に親しんでいたくなると申されています。懶という字は「りっしんべん」に頼るという字を書くので「懶…心に頼る」ということでしょうか。
「老懶」というのは年をとると何をするにも億劫になり今迄の人生を懐かしく思い、だんだん「無欲」になり「本質的な自分の存在が貴重になる」とおっしゃっています。又、植物学者の牧野富太郎博士は同時代の博物学者南方熊楠翁が七十才半ばで亡くなられた時に「八十才にもならんうちに他界するとは口ほどにもないやつだ」と喝破されたらしいのですが、この言葉は一見「ライバル」として熊楠翁にムチ打っているようにも聞こえますが、私には「長生きしなければ君のやりたかったことは実現出来ないではないか」という残念無念さが感じられ、お互い好きな研究にいそしむ者同志の深い友情が感じとられるのです。
ちなみに中国では八十才のことを半寿といい自然に生きたら百六十才まで生きられるといいます。八十才ではまだ子供なんだと云われた牧野富太郎博士は九十四才まで植物だけを愛して見事に「老懶」を「自娯」自らを娯しむことに変えていかれました。
生き方の結論は「無理は必ず綻びる」の諺のようにごく自然な気持ちで「教えたり教えられたり」「尽くしたり尽くされたり」と「人の生きる張り合い」はそんなところにありそうです。欲張らずに毎日が「無事であることの幸せ」をかみしめて、ささやかながらも充実した楽しみを積み重ねてこれからも仲よく人生の道を歩んで行きたいと思います。
中々思い通りにならない世の中ながら「張り合いがない」と仰有ることはなく、これからも健康にお気をつけられてお互い励まし合いながら頑張られますよう心からお祈り致します。
ー有恒会報最終号よりー