人生の中で、「 青春時代 」と呼ばれている大切な日々
1989年 平成元年 講話 河原 碧子
皆さん こんにちは
☆「光陰矢のごとし」この胸に迫る言葉は、皆さんにとって「青春時代」と呼ばれる大切な時期の余りの早さに驚き、惜しむ気持を表しています。その大切な時期を後悔しない、確実なものにするかどうかは一人一人の皆さんの心掛け次第です。あれこれ迷い悩んでばかりの人もいますが、迷っている間にも時間は過ぎて行きます。それは何かが出来上がる筈の時間が無駄にされてしまうからです。
☆ここで楽しく遊んでいる様な気持で学ぶ時間は、まるで遊んでいる様に見えていても知らない間に何か途方もない考えや技術が身についている事に驚くことになります。皆さんの作品について云えば一年前には一本の「線を引くのにも、あんなに苦労していた」人達だろうかと驚く程の成果が表れています。
「遊びながら学ぶ」というのは「人間が人間と遊ぶ」という振る舞いの中で、友人たちとお喋りをするだけの事にしても「お付き合いのしきたり」や「ルール」を学んでいます。どんなに一人でいる事が好きな人でも実際は「お付き合いのない人」はいません。
☆人間の社会には「作られた言葉」や「しきたり」「ルール」があるので「嘘」やお世辞を云ったり云われたりする事もあります。そんなことで私達は自分達で作り出したものに如何に傷つき振り回されていることに気付く事があります。気付いていても、ついつい流されてしまうのが「人間の弱さであり愚かさ」だと思います。それはそうでないと人間関係が上手くいかない事が多いからです。そんな色々な事をしっかり観察し判断できる様になるのは経験を積むという事
しかありません。「人間」以外の付き合いには「鳥」や「花」「木」「動物」など言葉は通じなくても人間と心を通わせる事の出来る身近な生物を友として遊ぶ人もいます。
☆他にも「雲」とか「雨」「風」「雷」「雪」などという自然そのものとのつき合いもあります。これらの自然は「つかみどころがない」というよりも時には人間に対して敵となって襲いかかる事もあります。しかしある時は果てしない想像力を湧かせてくれる心からの友になる事もあります。
☆私達が少年少女であった頃に「宇宙に輝く星の数々」「夏の夜空に流れる銀河」「凍る様な冬の夜の月」を見上げ「生きている事の不思議さ」「死へのおそれ」「人間の存在」や「未来に対する夢や不安」を感じる事で一杯でした。
☆これは「自然と向き合って自然と遊ぶ」「悠大きわまりない遊び」であると同時に想像力のもたらす創造力の芽生えです。この様な自然への問いかけのうちに人間の「無力さ」や「弱さ」「はかなさ」「もろさ」を知る事が出来たのです。
そこで「争いごと」の空しさや「欲望の醜さ」も知り、実生活に於いての色々な体験をするうちに「人間の世界で必要な事と無駄な事は何であるか」ということが段々わかってきます。
☆自然の前にはどんなに優れた人の知恵も説得力を失います。自然は人間にはとても及びもつかない永遠に掴み処のないものだからです。そんな自然に対しての問いかけは人間の一生をつかっても使い切れません。
若い時は「そんな事を考える暇はない」と思いがちですが「感受性の強い」「若い時こそ」人生のうちで最も考えるべき事だと思います。
☆物を考えるか考えないかは人生の後半に大きな影響を与えます。
☆宇宙の中の人間の存在は本当に微小で意味がないのではないかという現実に直面して空しさを感じた時こそ宇宙の中で人間に与えられている「小さな生命の生み出す価値」は何であるかに気付き驚くでしょう。「自分だけの喜び」の為に費やす時間や財産等が、殆ど何の意味もないことがわかる事になります。
☆それだけでなく「人の為に役立ったり生物を育てたり次の世代に人間の暮らし方を伝えたりする事の価値や喜びが、どれだけ大きなものを生み出すか判り自分という存在意識の出発点」になります。
☆☆人と共に生き共に考え役立つ喜びを知り、子供を生むことで新しい生命の育っていく様子を毎日楽しく見つめ、幼い瞳が自分を頼りにしているのを喜んでいるうちに、周りの人への愛情がふつふつと湧いてきます。
そうして人を育てるという事は、自分が育つ事であるということも知ります。人間の事を真剣に観察し、見守る中に創造の原点があることを発見します。
☆自分の周りが「素晴らしく育っていく」事を喜ぶ感情が生み出す創造力には「デザインとは何か」の答えがある様に思います。
☆芸術は「一枚の画面」や「一個の立体」によって表現されるのではなく、自分達の生活、生きていくことそのものが芸術であることがわかると毎日の暮らし方をより意識するようになって行きます。
☆日常の暮らしの中で「如何に工夫をし」「人には真心をこめて接し」「与えられた運命」を精一杯努力して生きようとする姿勢から生まれる作品には「その人が何を考えているのか」という意図や人格が表れます。それが「作品は人なり」と云われる所以です。先程、お話した「遊びながら学ぶ」という事は「遊び心」だけが対象ではありません。☆「遊び心」が生み出す雰囲気は周囲の人に「安心感」や「ゆとり」を与えるのですが大切なことは遊びの中にもある「緊張感」や「厳しさ」こそが、私達人間の「芸術性」や「ひらめき」を生み出す事をお伝えしたいと思っています。
人生の中のこの期間は皆さんの心の中に、これ迄出会った事がなかった『遊びの中に心を鍛える』という大きなきっかけを作るに違いないと信じています。
それは「幸福とは何か」の感情を人に分けて上げられる様な、美しく楽しい、しかも有用なデザイン作りに結びついていきます。自分を誤魔化す事なく例えどのような生き方を選んだとしても一筋、筋を通して生きて行くうちに何時か実りの多い結果が生まれる事でしょう。
☆「頑張る」という事は一度決心したら自分自身が「心の底から自覚する」事です。学生との対話の中で「頑張ってね」「頑張ります」という言葉のやり取りでは、何故か社交辞令的でお互いの真心や人格が感じられない侭で終わると思います。こういう「励ましの言葉の一方通行」では意味がありません。私達は心の底からの励ましや言葉の受け止め方を望んでいます。充たされた物質文明の中で物の云い方のルールも失われ、言葉の持つ意味にも鈍感になり意味を表す動作も「鈍」になっています。
☆それは人災と云われる災害が増えている事に表れています。伝達能力の未熟さと欠陥によるものです。そんな事が許されている「甘え」の構造の中に人間としての進歩があるのかと考えると、好きな道を歩むという事には前提となる「考え方の基本」がとても大切だと云う事が分かります。身も心も自由に解き放ち自然のままに振る舞っていられれば幸せかも知れません。☆しかし自由だけを強調すれば、「芸術にとって欠かせない緊張感も新鮮な生命力も自分自身の主体性」はどんどん失われていきます。
ある時は緩め、ある時は引き締めて自由自在に精神のコントロールが出来る様に実生活の中でも経験を積み重ねて行くうちにだんだん広い視野と豊かな内容を持つデザインという仕事をこなす事が出来る様になっていくでしょう。
☆「口紅から機関車まで」というアメリカのデザイナー、レイモンド・ローウィの言葉を私が聞いたのは1951年の事でした。彼に日本専売公社が「ピース一個」のデザイン料として百萬円を支払った事で話題になりました。☆この事は日本のデザイン界に創造する事の価値の高さを示しました。
この事は「デザイン」という言葉が日本中にクローズアップされる切っかけを作ったニュースでした。それ以来「口紅から機関車まで」のデザインの範囲は、今やミクロの世界といわれる「コンピューターの部品」から「日常の生活用品一切」から「宇宙ロケット」や「衛星」に至るまでに広がりました。そして現在では、生活空間に存在するもの全てにデザインという言葉が用いられる様になったのです。
☆デザインは人間生活のどの部分にも関わっているという重要性を改めて考える必要に迫られています。
☆皆さんが「認識」すべき事は決して一人よがりの感覚で判断してはならないという事で誰が見ても「機能と美」の二点を必ず兼ね備えている必要性があります。「表現する技術」以上に「形づくるもの」や「表現されるものに対する考え方のレベルの高さ」の問題があり「色々な角度からの調査や検証」の必要性です。
☆デザインのように「特別に広範囲に渉る仕事」の人材を育てる上で限られた時間で効率を上げるための環境作りの参考にこんな話があります。
☆中国の書物「菜根譚」(洪自誠・こうじせい)の中に「雑草の種子を防げ」という言葉があります。弟子を教育するのは「箱入り娘」を育てるのと同様で最も大切なのは交友関係に気をつける事で、もし一度でも良からぬ者とつき合えば、きれいに耕した田畑に雑草の種を落されたのも同然で、その弟子は一生かかっても一人前にはなれない」という事が書いてあります。自らの才能だけを頼っている人は本来の目的から外れ、経済至上主義の見せかけの唯、新奇なものであるという悪い影響を受けるかも知れません。
皆さんの「先天的才能」や「個人の能力の差」によって、それぞれの目的に添う為に要する年月に較差があるのは仕方のない事だと思います。☆「自分に合ったペース」で興味を持続する事は大きな課題ですが、その根本に「好きな事」をしているという自覚と喜びさえあれば必ず克服する事が出来ると思います。
☆実際、現代のような均一化された教育のやり方では不必要な劣等感や優越感、挫折感を生んでいます。
☆デザイン教育はひとり一人違う個性を引き出すと云う細やかな作業を必要としています。☆かつて「デザインとは何か」という哲学に支えられた問いから出発した「デザイン」という言葉だったのですが今では「社会で消費されているもの」という存在で「社会と芸術との関係」や「工業と手工業」の問題に何の矛盾も感じないで自分のアイデアを表現する事が出来れば、どんな手段でも利用しようという傾向があり、社会の求めているものから遠ざかってしまいそうな無駄な面が見受けられます。しかし実際にはそれで生計をたてて行ければそれでよいと考えているのが一般的です。勿論大企業のデザイナーや有力なクライアントを持ち、人的経済的な後ろ盾のある特別な人たちは別ですが。
☆「デザインという言葉が氾濫している今、「文化の中でのデザインの存在価値」やデザインの社会性をどう取り上げるべきかという問題をこれから広げて行きたいと云う野望はあります。
☆書店にうず高く積まれている技法書によって得られる知識、例えば、サイン、シンボル、レイアウト、タイポグラフィ、イラスト、コピー、写真、クラフト、インダストリアル、インテリア、建築等に関する理解の仕方はそれはそれとして、私達はそれとは別の方向から一つの考え方を持たなければなりません。造形活動に於いて熟練として行われている事が「創造的なもの」になるのは個人の才能によっています。才能や個性は、教えることも学ぶこともできません。しかし基本的な知識は「教える事」も「学ぶ事」も出来るので先ず基本としての過程を謙虚に習得することが必要条件です。社会の歪みに身をまかせた侭の既存の教育に反逆してより自由に、より高らかに「創作の意志を充分に行使」した「実際的な課題」を提供しています。課題をこなす事で得られる能力は「素描的」「彩画的なもの」ではなく「材料や技術」「経済の現実」や「生活全体との関わり」を考えながら作り出して行きます。
☆人は生まれ育つ過程で少しずつ蓄積されていく知識や情報に更に新しい情報を取り入れ色々と組み合わせ「考える」と云う作業をしています。この「考えたり感じたりする能力」は効果的方法である読書によっても大いに培われていきます。課題の中にはいつも読書に対する興味や知識が広がる様な提案がしてあります。
☆読書をする事によって「足りない情報」を補い「創造する能力の基本」とする事をすすめています。
☆人間と動物の違いは、人間には「考え、創造し、意図する能力」があるという事です。つまり一人ひとりには個性があるということです。この個性というのは注ぎこまれた知識や情報の集積ではなく、「自分が考え」、「自分で求めた知識」や「才能、性質、性格」が総合されたものです。☆人間はこの「個性」を鍛える事で「より人間らしく」なりますから「鍛えることもなし」に、「創造力」がないとか「才能」がないといって嘆くのは大間違いです。それは「単なる怠け者」としか言いようがありません。
☆この創造力を培い育てる事で「文化」が生まれますが、それと共に「優越感」「自負心」「競争心」等が芽生え、それが嵩じると征服欲になって行くという弊害もあります。人間だけが文化を伝え文明を形成出来るのですが一方では命の奪い合いなど動物にも劣る行為で罪もない子供や人々を傷つけます。
☆「この逃れられない罪」を負った人間の宿命について悩み苦しみ「矛盾に満ちた存在」の克服と調和についても大いに考えなければならない課題だと思います。
一見デザインをする事と関係ない様ですが社会の中で仕事をするということはそう云うことなのです。☆誰の心にも「本当のものを見つけたい」「自分の中に湧き出す色々な感情や心を留めておきたい」「思っていることや形を表現したい」という願望があります。それは厳密にいえば☆「物事をとことん見究める」という哲学的過程をたどってこそ「新しい発見」があるので長い年月をかけて一つのものを追及する根気を必要とします。今日 此処に集まった皆さんには真剣に物事を極め様とする「鋭い感覚」と「素直な感受性」を持って巣立って行って頂きたいと思っています。
☆加えて、大切なのは一貫した物事に対する「観察力」と完成への「強い意志」と「集中力」です。感覚や感受性は天性というか、胎内で既に大半培われていると云われますが、☆皆さんが生まれた時点でそれを持続し「力」としていくのは本人の「精神力」や「学習力」以外の何ものでもありません。自分が憧れ考えてきた「理想の花」を散らさない為にも精進し一生かけて学び続けていく事は大変なことですが是非共皆さんの夢として持ち続けて頂きたいと思います。
最初に皆さんはノートに「初心忘れるべからず」と書きましたが、参考迄にこの「初心忘れるべからず」は室町時代の能芸家「世阿弥」が能の奥義や秘伝を書き遺した「花伝書」(正式には「風姿花伝」)の中で世阿弥は、「芸術に対する認識」として示しています。この言葉は「一つの思想」として芸の道の最も重要な基本として現代に至るまで「あらゆる事始め」にあたって引用されています。世阿弥の偉大なところは当時世間で低俗なものとされていた能の評価をその高い精神性と修業により高貴で優雅なものに迄高めていったという点です。
☆その「精神と理論づけ」と「稽古」には、はかり知れない奥深さがあり「風姿花伝」の中で世阿弥は、芸術を志すものは、常に「心の花」を持たなければならないと言っています。「花」は人を惹きつける「魅力」の事であり常に「美しい」という事です。その時だけの魅力や美しさの「時分の花」ではなく永遠に変わらない「不失花」失せざる花を身につけなさいと云い、その為に「稽古を重ね、精進するのだ」という事を伝えている世阿弥の言葉を噛みしめ、思い起こしながら勉強して行きたいと思います。
こうして出会い共に学び色々な影響を与え合って、いずれは去っていく……。共に学ぶ為に巡り会ったとはいえ喜びは同時に別れの日の悲しさにも通じてしまいます。
☆人間には誰にでも「思い」というものがあって一人一人がその「思い」を話し出すと何千日あっても足りません。そのような感情から生まれる芸術や物語があります。皆さんとの間を区切るのは二年という短い月日ではありますが、皆さんが立派に成長し思いもかけないドラマチックな作品の数々を生み出して社会に出て行くかと思うと心の底から喜ぶべき事だと思います。
☆どうかいつまでも今日という日を忘れずに有意義な毎日を送って下さる様に願っています。
明日からの勉強を楽しみにしています。それでは